困った時の神頼み 近年、信仰とは無縁とも思える若者の正月の初詣以外での神社の参拝が目立つ。苦しい時の神頼みか、受験生が試験の前に参拝するので有る。特に学問の神様としての天神信仰は学生にも浸透して居る。歴史上に実在した人物が神として祀られるは極めて異例の事で有る。牛は神使とされ臥牛像が置かれて居る。 喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真公は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。他にも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅原天満宮(島根県松江市)説も有る為、本当のところは定かでは無いとされて居る。又、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では、天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真で有り、近くの菅山寺で勉学に励んだと伝わる。 道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生と成った。貞観9年(867年)には文章生の内二名が選ばれる文章得業生と成り、正六位下に叙せられ、下野権少掾と成る。貞観12年( 870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、其では五位に達してしまうと言うので1階のみ増して正六位上に叙せられた。翌年には玄蕃助、更に少内記に遷任。貞観16年( 874年)には従五位下と成り兵部少輔、次いで民部少輔に任ぜられた。元慶元年( 877年)、式部少輔に任ぜられた。同年家の職で有る文章博士を兼任する。元慶3年( 879年)、従五位上に叙せられる。仁和2年( 886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)、阿衡事件に際して藤原基経に意見書を寄せて諌めた事により、事件を収める。寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した 此れまでは家の格に応じた職に就いて居た道真公は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任する事と成る。皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者が居無い事もあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真公の建議により遣唐使は停止された(延喜7 年( 907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。寛平7年( 895年)には従三位権中納言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御とした。翌年、民部卿を兼任寛平9年( 897年)には娘を宇多天皇の子・斉世親王の妻とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。またこの年には宇多天皇の元で太政官を統率し道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が薨去している。 醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真公の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。昌泰2年( 899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。延喜元年( 901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真公がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。 道真公は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真公が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が京の都から一晩にして道真公の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。 人形浄瑠璃文楽の『菅原伝授手習鑑』に登場する佐太村は大阪府守口市の佐太(旧大庭)に実在の地名で有る。物語に実在の地名が登場するは極めて珍しい。その佐太村に嘗て儒家の林羅山が日本三天神の一つと称した佐太天神宮(旧佐太村天満宮)が実在る。 此の神社は、菅原道真公が左遷で太宰府へ流さ れる途中、荘園で在った当地に滞在された時、自 作の木像や自画像を残されたと伝えられて居ます 道真公の死後五十年の天暦年間(九四七〜九五七 )に、道真公を慕って祠を建てられたのが当社の 創建で有ると伝えられ、室町期には大庭庄の惣社 として崇敬される様に成りました。現在の社殿は 永井尚政・尚庸父子や淀屋辰五郎等の手厚い保護 や支援を受けて整備され、江戸時代初期の重要な 建造物と言われて居ます。当社には室町時代文安 三年(一四四六)の箱書の有る「天神縁起絵巻」 六巻の他、永井公より寄進を受けた狩野探幽の十 一面観音画像を初め後水尾上皇を中心に当時の宮 廷を取り巻く皇族・公卿・画家・学者・高僧等の 江戸初期の美術作品が多く奉納されて居ます。 窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな(蕪村) の一句の俳句からも当時の繁栄振りが偲ばれる。 |
2009−08−24−432−01−01−OSAKA |
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