座右の経典

 人に誇れる座右の書を持って居る人は幸せでも有る。多くの日本人にとって、漢字は難しいく文章を書こうとすると事典を引く必要も出た来る。吾座右の書は実用事典で有る。ワープロの辞書の候補に出て来無い漢字も意外と有る。必須の存在でも有る。
 キリスト教徒なら聖書が座右の書と成るので有ろう。旧約聖書と新約聖書の二つも有る。回教徒ならコーランで有ろう。偶像を持たぬ回教にとってコーランは特別重要な書で有る。目読するので無く、実際に声に出しての音読が重要か、声に出す事で暗誦も進むし、神の声としての言葉の響きも体感出来る。外国のホテルに泊まると机の引き出しに聖書が入って居たりもします。仏教徒は経典(御経)と成るが法事の度に和尚の読経を聞いて有難い気持ちには成るが内容が今一つ良く分から無い。翻訳書も出版せれて居るが読もうと思う人も又少無い。分から無いから有難い気持ちに成るのか不思議でも有る。
 日本人は外国の様に熱心な信者も少ない。元旦には神社に詣で、結婚式は神式で行う人が多い、葬式は仏式で行い。キリスト教徒でも無いのにクリスマスを祝ったり、バレンタインデーにも関心が有る。神社の祭りには氏子として参加する人も多いが、熱心な信者とは言い難い。病気に成ったり、大学の入試の様に困った時の神頼みが多い。交通安全の信仰も多い。会社の屋上に神を祭る祠が在ったりもします。
 宗教的な書を座右の書にし、気の利いた言葉を引用し、社会の信望を得るのも人生を巧みに生きる術でも有る。しかし、美しい言葉の影に人の心を迷わす魔性も存在する。地下鉄でサリンを蒔いた宗教団体が名前を替えて今だに信仰、伝道活動を続けて居ると言う現実も有る。実に恐ろしきは人の心成り。額に汗する事無しに口先丈で人の心を弄ぶ世界でも有る。物の誠を見抜く心眼を持つべきか。日本中から怪しげな宗教活動で顰蹙を受けた白装束隊は今何をして居るので有ろうか。インターネット上でも大宇宙等で検索すると怪しげなサイトに出会う場合も有る。美しい言葉に引かれ心を動かす迷える羊が如何に多いかが判る。
 昔から、人々は天変地異を恐れ、神の怒りを恐れ、怪しげな妖術師が神に生贄を捧げて、神の怒りを和らげて来たので有る。アメリカの古代文明の地インカ、マヤ、アステカ等から生贄にされたミイラが多数発見されて居る、試合に勝った勝者が生贄に成った悲劇も有る。敗者は生贄にする価値も無いと思われたので有る。日本でも身体の汚れて居無い処女が人柱にされた悲しい逸話も多い。旧約聖書の中にも神が最愛の息子を生贄に求める酷い話も出て来る。国道のど真ん中に古木が有り、切り倒すと災いが起こるとして誰も切れ無いので有る。京阪電車の萱島駅には駅のホームの真ん中に楠木の巨木が有る。ホームの天井を吹き抜けて天に伸びて居る。
 仏教の発祥の地の印度も今では仏教は衰退気味でも有る。ヒンデゥ教が今では主でも有る。中国で御経を翻訳する時に東洋人の好みに合わせて、大らかに訳した為に、東洋に受け入れ、印度から遠い地の果ての日本で花開いた。仏教の大らかさが日本に受け入れられたのは厳しい苦行を強い無かった為でも有る。或る僧侶が牛を生贄にして居る風習の有るのをみて、牛を生贄にするのを止めて羊にしなさいと薦めた。残酷だから止めろと言わ無かった事が重要で有る。悪い風習を改めるには焦っては成らない教訓で有る。 デンマーク映画のベネットの晩餐会で宗教的な会話が何箇所か出て来ます。彼の世の話、天国や地獄等キリスト教の宗教感が判る作品でも有る。質素で敬虔な奉仕活動等凡人の及ばぬ世界が描かれて居る。粥に振る塩を買う御金にも事欠く生活等、今の飽食の時代には想像も出来無い人も多い。天使の歌声の様な賛美歌も聴ける。最後は豪華なフランス料理の晩餐会の贅の限りを尽くした料理が作られ、料理に関心の有る女性なら興味が有る筈で有るのに、真面目な宗教的なDVDは売れ無いのか在庫切れ、廃盤に追い込まれるのは悲しい限りでも有る
 門徒もの知らずの諺も有る。法事や、命日の時以外は余り何もしない大らかさが有る。門徒で有る事を理由に怪しげな新興宗教の誘いを断って来たので有る。宗教を妄信しない戒めでも有る。宗派に依って、仏壇や作法が少しづつ違うのも可笑しな世界でも有る。宗教では質素を善しとして居る仏教では有るが、仏壇の中は御仏の世界、絢爛豪華でも有る。和尚の袈裟も普段は質素な墨染めで有っても、葬式の時は僧侶の位に関係するのか、錦の金糸銀糸の法衣に袈裟で有る。非日常的世界、極楽浄土の再現でも有る。作法が有り、喪主は出棺時の挨拶も有り色々と考える事も多い、悲しんで居る暇も無いので有る。蝋燭は白と決まって居ると思い込んで居たら、時に赤い蝋燭は使われる場合も有る。小川未明の童話の赤い蝋燭と人魚の話を思い出して、複雑な気持ちにも成る。
 芥川龍之介の蜘蛛の糸は美しい日本語で書かれて居て、朗読の練習に使えそうで有る。最近の国語では試験に出無い、朗読の技術を等閑にする傾向が有る。若者の中には日本語の発音、アクセントが少し可笑しいと思う事も多い、関西人なのに変な江戸弁を使ったりで有る。テレビの影響で有ろうが。
 浄土真宗の門徒では盆や法事の時等に正信偈を全員で唱和する慣わしも有る。子供の頃から読んで居る丈に意味が判らなくともカナが振って有り読めるのも不思議で有る。冊子が何冊も必要と成る。インターネット上で訳も公開されても居ます。一度閲覧して見る価値は有ります。
 法王が亡く成り、新しい法王が決まる迄の間、キリスト教の門徒の多くの若者迄もが悲しみの余り涙を流して居たが、新しい法王が決まると涙を流す若者はは最早居無い、人の世の心の現実でも有る。凡人も聖人も、極悪人も死ねば皆同じでも有る。生きて居る間の性でも有る。
 神社仏閣が地震で倒壊したり、火災で焼失した場合、本山や市や府や国が再建費を出して呉れるものと信じて居ったら。氏子、門徒で何とか為なければ成ら無い場合が多い。建替えと成ると莫大な資金が必要と成る。放火なら大変な災難でも有る。問題は氏子や門徒で均等に寄付を求める訳けには行か無い事で有る。当然御店や会社等の自営業等を営む家は其れ成りの寄付を求められる、会社員はなら可也低い額と成る。家の大きさ、格に依って相場が自然に決まって来る。強制では無いが、神仏に関する事丈に文句を言う人も少ない。日頃の賽銭は小銭で済むが、数百万円を超える寄付を求められると唖然とする人も多い。以前の様な木造の神社仏閣の再建は金額的に不可能で近代的な鉄筋コンクリートの神社仏閣と成る。堅牢で、豪壮では有るが昔の面影は無く成ってしまう。阪神大震災で古い神社仏閣で被害を受けた所も多い。信仰の継承も大変な事なので有る。
 昔は、寺子屋も有り、和尚が読み書き算盤を教えて居った事も有ったので有る。今でも御寺で宗教的な勉強会を行って居る所も有る。御経の深い意味を学ぶのも重要な事でも有る。地域との繋がりも生まれて来る。知り合いも出来る。定年後は積極的に参加して見るのも長生き方策か。
 年老いると小さい字で書かれた座右の書籍を読むのも辛い仕事でも有る。天眼鏡が必要と成る。電子辞書も買ったが余り使わ無い内に電池切れで使いたい時に役立たずで有る。高校生の時に買った辞書が何十年も経った今だに使って居るのを思うに、紙の本の辞書の価値は計り知れ無い。古い辞書には差別用語も其の儘載って居て。歯に衣を着せぬ日本語の真を知る事が出来、満足、納得が出来ます。
 外国語の辞書が指の当る部分が破れる程に酷使する人も少ないが、暇さえ有れば読む習慣も大事で有る通勤電車の中で読む事を生涯続ければ可也の時間を有効に利用した事と成る。居眠りしていても過ぎ去ってしまう時間でも有る。人生は二度と無いので有る。有効に利用すべきでも有る。外国語を勉強する事は人生を二度楽しめる事を意味して居ます。挑戦するに値する世界でも有る。宗教の世界の様でも有る。別の宗教を信じて居たら、別お人生が有ったかも知れぬので有る。一つの宗教を妄信するのは考えものでも有る。日本人の様ないい加減さが大事なのかも知れません。







          2007−06−25−241−02−01−OSAKA



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